中村錦之助・映画祭り
記念本
 ・ご案内
 ・会報
錦之助映画祭り2010 平成21年10月吉日

あの雄姿、ふたたび!


昭和30年代東映黄金期の看板スターは、まぎれもなく中村錦之助(昭和47年萬屋錦之介に改名)であった。 『笛吹童子』で"錦・千代ブーム”を巻き起こして以来、錦之助は東映にあって一作ごとに目を瞠る進歩を遂げ、わずか3年で人気・実力兼ね備えた時代劇の若手ナンバーワンに昇りつめる。錦之助の躍進は、同時に東映が時代劇王国を築いて発展していくプロセスでもあった。

中村錦之助は昭和41年(1966年)東映京都を去るが、この12年間に出演した映画の数々は東映黄金期の記念碑であり、また珠玉の名作揃いである。あの若き日の錦之助をスクリーンに甦らせたい。その活躍ぶりを目の当たりにすれば、錦之助は今でも”生きている”ことに気づくであろう。一等星の燦然たる輝きは恒久的である。

「錦之助映画祭り」は、昨年(2009年)3月、萬屋錦之介の十三回忌に東京池袋の新文芸坐で2週間開催された。『笛吹童子』から『宮本武蔵』まで、選り抜きの東映作品32本を一挙上映した。そのうち10本がニュープリント、内6本は約50年ぶりにスクリーンに映写された作品だった。大衆に夢とロマンを与える娯楽作あり、戦乱の世に人間が生きていく意義を問う力作あり。チャンバラあり、ロマンスあり。映画館に集った皆さんは、錦之助の素晴らしさはもちろん、現代ではもはや作り得ない豪華絢爛時代劇の醍醐味も満喫していただけたと思う。

その後京都でも「錦之助映画祭り」を催した。4月に祇園会館で開幕し、6月に四条烏丸の京都シネマで一週間、錦之助映画の代表作を7本上映した。

昨年11月には錦之助生誕77年を祝し、3月と同じく池袋の新文芸坐で15日間、「錦之助映画祭り」を催し、一年のフィナーレを飾った。 上映作品は計28本、3月のプログラムとは異なる作品を集めての上映で、ニュープリント9本、内5本は錦之助映画ファンの会の寄贈プリントだった。

それから約一年、今年(2010年)11月、再び池袋の新文芸坐で「錦之助映画祭り」が開かれる。「あの雄姿、ふたたび(アンコール)!」と題し、昨年上映しなかった作品にリクエストの多かった作品を加え計21本上映することになった。ニュープリントは8本、内2本は錦之助ファンの会の寄贈プリントである。11日間にわたり、錦之助映画を存分にお楽しみいただきたい。

錦之助映画ファンの会 
代表 藤井秀男

青春二十一から 第1号(平成20年秋号) 抜粋 平成20年10月8日発行

錦之助映画祭り開かれる!

*来年三月、東京・新文芸坐
*来年四月、京都・祇園会館
*来年六月、京都シネマにて

事の起こりは、今年二月初め、東京池袋の新文芸坐、佐々木康監督の生誕百年祭が催されたときのこと。佐々木監督のご親族がお金を出しあって、東映に依頼し、なんと錦之助さんの出演作を五本もニュープリントにして上映してくださったのです。『血斗水滸伝 怒涛の対決』『曽我兄弟 富士の夜襲』『七つの誓い』(三部作)でした。

われわれ錦ちゃんファンが欣喜雀躍、感謝感激したことは言うまでもありません。われわれというのは元「錦之助映画鑑賞会」、現在「錦之助映画ファンの会」のメンバーのことで、老若男女三十数名から成り、錦之助映画をどこかで上映していると、それとなく集まり、映画を観たあと、喫茶店や飲み屋へ繰り込み、錦ちゃん談義に花を咲かせる面々。東京首都圏に住んでいる人だけでなく、大阪、京都、愛知、静岡、長野、岩手から泊まりがけで錦ちゃんの映画を観に来られる方もいます。

話は戻り、池袋での昼下がり。二十数人が集まりました。みんな興奮醒めやらず、われわれもお金を出しあって、何本かニュープリントを作り、錦之助映画の大特集をやろうではないか!と決議。新文芸坐の永田支配人に直談判しました。

「そちらでは、雷蔵さんや勝新さんの映画特集はやっているのに、錦之助さんの特集をやらないのはどういうわけですか!」
「来年は錦之助さんの十三回忌ですから、ご命日の三月十日あたりにぜひ特集を組んでください」
「やらないと映画館の廊下にみんなで坐り込みますよ!」なんてことは言いませんでしたが、永田支配人に強く迫ったことは事実。
「ニュープリントをみなさんでお金を出して作ってくれるなら、やりますよ」という回答に、歓声が上りました。
そういう次第で、「錦之助映画祭り」を催すことになりました。せっかくニュープリント、東京だけで上映するのはもったいない。時代劇映画のメッカ、京都でもやろうという話になり、京都在住の中島貞夫監督に相談に乗っていただきました。そして、祇園会館と京都シネマに企画を持ちかけたところ、どちらからも快諾を得られました。
「錦之助映画祭り」は、東京と京都で来年三、四期間にわたり、いくつかの会場で催す企画を進めていますが、ほぼ決定している事項は次の通りです。

〈パート1〉
東京・池袋の新文芸坐で来年三月に二週間(予定三月七日〜)、錦之助出演作を日替わり二本立てで計二十八本上映します。
〈パート2〉
京都・祇園会館で来年四月十一日(土)にオープニング、そのあと四条烏丸の京都シネマで六月に二週間、催します。京都文化博物館の協賛も得られました。
〈パート3〉
東京・池袋の新文芸坐で来年十一月に(錦之助さんの生誕七十七年を記念して)二週間、パート1とは違った作品を上映し、フィナーレを飾る予定。
 

錦之助を語る(1) 錦之助の笑顔  / 背寒

錦之助が映画のラストで見せるあの晴れがましい明るい笑顔が私はたまらなく好きだ。錦之助はこれを真正面から見せる時もあり、少し横向き加減で見せる時もあり、また、振り向きざまに見せる時もある。そのどれもが良いが、映画のラストで錦之助がこちらに向かって微笑んでくれると、ああ良かったなあと思う。そして、この上なく幸福な気分に満たされる。いい年をした男のくせになんて単純なんだと言われるかもしれないが、人が何と言おうと、かまわない。

錦之助の映画を観ながら、私は相当感情移入しているようだ。自覚症状もある。錦之助が、いや正確には錦之助の演じる主人公が、悲しい気持ちになると、私もなぜか悲しくなる。怒りを感じれば、私も怒りたくなる。彼が女性に恋すれば……、私もおおむねその女性が好きになるといった具合である。おおむねと言うのは、相手役の女優によっては私が好きになれない例外もあるといった意味である。たとえば、『青雲の鬼』や『親鸞』の相手役はダメ、『反逆児』の岩崎さんも苦手である。
『一心太助 天下の一大事』のラスト。箱根かどこかの峠の頂だったと思う。日本晴れの空の下で、錦之助の将軍家光が、湯治に行く彦左衛門(月形龍之介)と太助(これまた錦之助)を前にして、「じいを頼むぞ」みたいな感じで、にっこり笑った表情が格別だった。
『殿さま弥次喜多』(第三作)で、最後に殿様に戻った錦之助が将軍職を中村賀津雄に譲り、駕籠に乗ってお国へ帰る時、錦之助の顔のアップが画面に映し出される。あの時の「これでいいのだ」と納得して微笑む表情も抜群に素晴らしかった。

錦之助のこうした表情をどう言い表したら良いのだろうか。名君の慈愛に満ちた表情と言っただけでは、物足りない。錦之助は映画館に集まった観客みんなに向かって微笑みかけているとしか思えないのだ。舞台なら、「千両役者!」「日本一!」と声のかかるところだろうが、錦之助は派手なアクションをして見栄を切るわけではない。映画の大画面に映る明るい顔のアップだけで、観客をうっとりさせ、この上なく幸せな気持ちにさせてくれる。ちっともわざとらしくない、心暖まる笑顔である。スターの魅力と片付けてしまうのではもったいない。数あるスターの中でも錦之助の魅力は特別で、私は他のスターからは胸一杯に広がるああした幸福感を得られない。観ているわれわれに(決して私だけではあるまい)生きる元気を与えてくれる錦之助というスターは、稀有な存在なのだ。

若き名君を演じさせたら、錦之助の右に出る役者は絶対にいないと思う。気品、愛情の豊かさ、人徳、すべての点で錦之助の殿様はパーフェクトである。この名君の錦之助が微笑むと、下々の者はまるで仏様の笑顔を拝んだような気持ちになるのかもしれない。

美剣士錦之助がラストにえも言われぬ笑顔を見せる映画は、『剣は知っていた 紅顔無双流』である。孤高の剣士・眉殿喬之介が家康の娘・鮎姫(大川恵子)との結婚を許され、二人で仲睦まじく旅立つシーン。遠くに富士山が見える峠の山道。こちらを向いた錦之助がニコッと笑みを浮かべ軽く会釈をするのだが、観た瞬間、とろけそうになる。

旅人やくざに扮した錦之助の笑顔も素晴らしい。私は『浅間の暴れん坊』の錦之助が好きなのだが、あの映画のラストシーンは頭から離れない。錦之助はやくざの足を洗い、かたぎになって戻ってくるつもりで、故郷の母親(夏川静江)の元に許婚の恋人(丘さとみ)と長脇差を置いて、黙って旅に出て去っていこうとする。それを知った母親がその脇差を小脇にかかえ、許婚と一緒に懸命に追いかけて行くのだが、途中で息を切らしてしまう。もう追いつけないというところで、錦之助が二人の方を振り向き、破顔一笑。何も言葉をかけないが、「きっと戻ってくるから、安心して待ってておくれ」と愛情のこもった笑顔をこちらに投げかけて映画は終わる。この錦之助の表情が惚れ惚れするほど良かった。

錦之助が武将を演じた映画では、『独眼竜政宗』のラストシーンも絶品だった。白馬にまたがって凱旋する錦之助の若き伊達政宗が、追いすがる山家娘の佐久間良子を肩越しに見て、「そなたの愛情は一生忘れぬ」といった笑顔で応えるのだ。このラストシーンを見ると、いつも私は胸がじーんとしてしまう。ハッピーエンドではないが、凛々しく男らしい錦之助の最高の笑顔の一つだったと私は思っている。  (了)

編集後記
会報の名称を「青春二十一から」にした。映画『宮本武蔵 般若坂の決斗』で、白鷺城に幽閉されていたタケゾウが武蔵と名乗り、再出発するときのセリフが「青春二十一、遅くはない!」だった。これは吉川英治の原作にもあるフレーズである。が、映画の中で錦之助がこのセリフを言うとき、きっと万感の思いを込めていたにちがいない。

錦之助が歌舞伎界を離れ、映画界に入ったのは、昭和二十八年十一月終わり、ちょうど二十一歳の誕生日を迎えてすぐのことだった。父である三世時蔵の反対を押し切り、不退転の覚悟で映画の世界に飛び込んだのである。以来、錦之助は映画を知り、映画を愛し、映画に青春のすべてを賭けてきた。

錦之助が心血を注いで演じた映画の人物たちをスクリーンで再現したい。これがわれわれの願いである。
「錦之助映画祭り」の実現のために、いろいろな方と電話で話したり、お会いしたりしてきた。みなさんのご協力のお蔭で、企画が次々と具体化して行き、ほんとうに嬉しく思っている。募金活動も順調に進み、早くも総額百万円を突破する勢いだ。日々感激を新たにしながら、何としてでも「錦之助映画祭り」を成功させなければならない、そのためにあれもしよう、これもしよう、そんなことばかり考えている。(藤井)